石見銀山 観光

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石見銀山

石見銀山(いわみぎんざん)は、島根県大田市にある戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)です。鉱脈は石見国東部、現在の島根県大田市大森の地を中心とし、同市仁摩町や温泉津町にも広がっていました。日本を代表する鉱山遺跡として1969年(昭和44年)に国によって史跡に指定され、2007年(平成19年)7月2日、世界遺産委員会でユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決まりました。

石見銀山を発見し本格的に開発したのは博多の商人・神屋寿貞(かみやじゅてい)であるとされています。商船で移動中、海上から山が光るのを見た神屋寿貞は、領主大内義興の支援を得て1526年(大永6年)3月、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出しました。この後、1923年の休山まで約400年にわたって銀が採掘されたことになります。

1533年(天文2年)には、神屋寿貞が博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功し、この技術によってより効率的に銀を得られるようになり、この技法は全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をすることになります。灰吹法確立以前は、銀鉱石を鞆ヶ浦港(仁摩町)や沖泊港(温泉津町)まで、険しい山道を人馬によって運び、そのまま船で積み出され取引されました。銀を運んだ山道は銀山街道と呼ばれています。

大森の町並み

長く続いた戦国時代の銀山争奪と、以後の江戸幕府による支配と開発が続く一方、石見銀山が開発された時期は日本経済の商業的発展の時期と重なっていました。

このため、製錬された灰吹銀はソーマ銀と呼ばれ、そのまま日本産銀の銘柄のひとつとして商取引に利用され、またこの灰吹銀を譲葉状に打ち伸ばし加工された石州丁銀およびその後の徳川幕府による慶長丁銀は基本通貨として広く国内で流通したばかりでなく、中国・明、16世紀後半からマカオを拠点に来航するようになったポルトガル、17世紀初めに来航したオランダ東インド会社などとの間で、石見銀山の銀を媒介とする世界規模の交易が行われました。

銀産出量は世界全体の三分の一(その生産量の平均は年間200トン程度、内石見銀山が38トン(10000貫)程度であったと推測)に達し、当時の石見銀山が、世界を動かす重要な役割を果たしたことは明らかです。

また、当時の面影を残す『大森の町並み』には、いろんな発見があります。代官所跡から南に1kmにわたって続くレトロな町並みには、お寺、武家の家、商いをする家、民家が軒を並べ、残されています。城下町などは武家屋敷と寺町通りのように別れていますが、一緒になっているのが大森の特徴で、昔ながらののどかな風情を感じさます。古民家を改装したカフェやギャラリー、銀細工の店などもあります。

「石見銀山の観光」について

石見銀山は観光名所として有名ですが2007年に世界遺産に登録され島根県の観光の拠点となりました。石見銀山のアクセスから観光ポイント迄紹介します。

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